[書評]ヒオカ
『死にそうだけど生きてます』
ccc メディアハウス 2022年9月発刊

ヒオカ『死にそうだけど生きてます』

 そのときどきの情動に付着するようにして、大多数の人びとは世の中を真っ直ぐ見ようとはしない。
 そんな時代が到来して、ずいぶん経ったような気がする。いやそれはこの国の現実として、かなり以前からそうだったのかもしれない。
 ヒオカと名のる、まだ若い女性が記したこのエッセイには、すくなくとも時代の情動に付着するといった姿勢はうすい。
 むしろ、いまの時代の慣れきった無関心と無理解にさんざん痛めつけられてきた地平から、いかにこの世の現実と時代を見返すか。その一点から真っ直ぐに放たれる眼差しがここには存在する。


 ヒオカは、本書「Part 1 今までのこと」のなかで、まずいまの自らのありさまを語り出す。
 ちょうど2020年3月29日から・・・。その時期、この国はコロナ・パンデミックのはじまりのときを迎えていた。〝不要不急〟の外出制限がなされ、4 月7 日には東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に緊急事態宣言が発令された。そのあいだヒオカは百貨店の催事場での派遣の非正規労働者として、仕事がいつ打ち切られるかの恐怖におかれながらも、労働を金で量り売りする「時給」によって、くらしをつないでいた。
  私には休むという選択肢はない。身体よりも目の前のお金が大事だ。
 3 日後の生活が見えない現実。経済的な死を免れるために、綱渡りのような毎日が続く。それはコロナ禍のなかで、貧困に閉じ込められたすくなくない人びとの、逃れようもない現実そのものであったはずだ。・・・自らが(コロナに)感染する恐怖がこみあげてくる。そうなると、生きられない。

 その生死の限界線を行き来するようなコロナ禍の日常から、目の前の現実に相伴するようにして、ヒオカの視線は、自らの子ども時代に垂線を降ろすようにして語り継ぐ。
 しかし、そこで語られるのは、逃れがたい貧困と父親の抑制の効かない暴力が支配する家族のありようだった。
 中国地方の過疎地にある県営の団地に住む生活。その小さな家の中で、昼夜問わずまき散らされる怨嗟と怨念、不満と絶望・・・。父は精神障害を病んでいた。なにか気に食わないことがあると、ひんぱんに母を殴る。紫色に変色した足、切れた唇からの血をぬぐって耐える母のすがた。父親の怒鳴り声におびえる自分自身。けっして明けることのない絶望の暗闇に、耐えるしかすべのない日常・・・。それに重く貧困がかさなってくる。

 まだ子どもだった頃、私にとって村は逃げられない檻だった。絶え間のない暴力と、際限ない貧困に突き込める檻。

 さらに学校では、「倫理観の未成熟な幼い正直さが、悪意として自分に向けられ」、唐突にそして持続的に差別や不気味なシカトとイジメの数々が襲ってくる。
 そんななかやっとの思いでフリースクールに避難し、教材や参考書を、または自らの孤独を癒やし、いまある現実の世界以外の世界を図書館での読書に求めながら、ヒオカはその地方の進学校に進学し、さらにセンター試験を受け、本試験もクリアして公立大学に進学する。
 そうした苛烈な体験のなかで「あきらめないといけないことが多い」という子ども時代に抱いた諦観から、「・・・もっと知られて欲しいと切に願う。この世界の片隅に、多くの人が何気なく手にしている〝当たり前〟や〝普通〟を手にすることができない子たちがいる、ということ」の意味をつかみ取る。眼差しは自己のものから他者をも含み込んだものへと静かに深まっていく。
 とは言うものの、この物語をありきたりな「成長物語」として肯定的にとらえることは正しいとは言えない。なぜならいまの日本には、ヒオカが語るほとんど無理解な現実が放置されたままであるからだ。

 ところで、こうした苦難の物語は、これまでもけっして少ないわけではなかった。古くは、封建的な時代環境のなか、貧しい境遇に生まれ、親の決めた結婚に反発し出奔して、その後に大杉栄と出会い、さらに関東大震災の混乱のなか官憲によって大杉とともに虐殺された伊藤野枝。また貧困と養家先の無理解に追いつめられながらも自身の求める真実に向かい、天皇制の虚偽と矛盾に怒り、朝鮮人朴烈と大正天皇皇后の暗殺を企てたとして大逆罪で捕縛され、23歳で獄中死をとげた金子文子などの物語が存在する。
 現代でも、イジメ、不登校、家出、自殺未遂など生き苦しい思春期を生き、自らを復活させるべく「生きさせろ!」と絶叫する雨宮処凛など、女性による生きる痛苦を語る物語はけっしてすくないわけではない。
 その意味で、本書もその流れのなかにある物語としてとらえられるのかもしれない。そのため、ときとして恵まれた環境のなかで豊かな文化資産を持つウブなインテリ階級に、こうした苦難の物語は好意的に受け入れられ、おおいに感動されたり喧伝されたりするのかもしれない。しかし、本書にはまだ続きがある。

 ヒオカは、非正規の仕事とぎりぎりの生活に追い立てられシェア・ハウスを転々とするなど、いつまでも居場所が定まらない。そんななかネットを通じてひとつの縁を得る。そのどちらかと言えばか細い縁から、彼女は書くことによって自らが啓かれていき、それとともに社会というものとの接点に気づかされる。
 書くことによって、「無いもの」にされてきた世界の一端を、伝えることができる。社会の分断を溶かす、ほんの小さな一助になれるかもしれない。

 そのあとに物語は、「Part 2 その後のこと」へと展開する。
 そこでヒオカは、まず生き残ったものだけを評価して偏った法則を見いだす「生存者バイアス」の〝当たり前〟さを誇示する無理解を突く。さらに、すべてにおいてマイナスからはじまる者たちを不可視化する現実に向かい合う。

 しかし、よく考えて欲しいのだ。実際は、誰一人として、同じ条件ではないのである。スタートラインも違えば、背負っているものも違う。自分が乗り越えたからと言って、似た境遇の人が乗り越えられるとは限らない。
・・・私にとって、ゼロベースでスタートラインに立てる人たちは、舗装された道路を歩いているように見える。

 ヒオカは「努力は報われる」「夢は叶う」的な安易にながれる嘘くささを峻別し、「自己責任論とは、想像力の欠如であり、創造する努力の怠慢」だと見据える。
 さらに、いまどきの情動に付着するメディアにも冷静に目を凝らす。メディアは、悲劇や突出したものさえ無意識に情動的に消費するだけであり、そこで語られる「社会問題」ヘの言及は物事を引き立たせる道具でしかない。

 「消費」とは、摂取しても血肉にはならず体から排出されることだと私は思う。人の困難を娯楽として消費しても、どこまでも他人事である。そして、得られる関心の「質」は絶対に向上しない。
 ・・・私は、困難を困難のまま伝えることが大事だと思っている。

 ヒオカに促されるようにして、いまどきの日本社会を見渡してみるなら、能力や努力はかならずしも「所得」と正比例しない現実が長く続いている。それ以上に、世の中の重苦しい同調を強いる囲いのなかで、その人自身の内部に埋もれている能力を見いだす想像力は信じがたいほどに衰弱し、個々人の多様な現れとなるはずの努力が、偏差値能力主義者やお調子者の嘲笑のなかで悲しいほど貶められている現実がある。
 人びとは勝ち誇ったように、負け組・勝ち組の差異を強調し、2000年代初頭の小泉純一郎時代の「自己責任論」を、いまだにこれ見よがしに振りかざしている。
 ヒオカはその現実をまえに、ときにはすこしシニカルに、さらにこれまでの激しい痛苦を語る物語とは一線を画す落ち着きのある静かさで、この世の中の理不尽さを取り上げていく。若さをじゅうぶんな武器として・・・。

 本書の著者紹介の最後に、ヒオカは「幼い頃から、お笑いと関西弁が好き。特に狂気を感じる系の笑いに惹かれる。・・・言葉フェチであり、言葉オタク。暇さえあれば辞書を引き、単語や熟語をストックするのが趣味。語感が良い単語やフレーズを見つけると、ムフフとなる。必ずメモしている」と自ら記している。
 本書の讃辞に「若手論客」とあるが、この最後の一文を読むならば、ヒオカという著者を「論客」といったふうに評するのはどうなんだろうと思う。それよりは若い感性に根ざした、きわめて〝ふつう〟の立ち位置にある書き手であることに、読者はむしろある種の共感を覚えるのではないか。
 読み終えて思うのは、ヒオカが世の中を真っ直ぐに見る眼差しがこれからも瑞々しいものであることを期待せざるをえないことである。そしてこの本が、まちがいなく時代の空虚さを射るまじめな一書だという、そのことである。

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