暴力のまえに
文学ははたして有効なのか?
暴力のまえに
文学ははたして有効なのか?
暴行、虐待、強奪、強姦、嗜虐、拷問、殺人そして〝人間〟そのものの剥奪・・・。
いまパレスチナ・ガザで、ミャンマーで、ウクライナで、シリアで、新疆ウイグル自治区で、アフリカ・南スーダンで、いや数えられない地域で、暴虐な武器をもった権力は、漆黒の闇のごとく、平然と無辜の人びとを苛んでいる。
その惨禍のもと、多くの人びとは人間として保っていた希望や愛情、共感、そして親密さや哀切さをことごとく剥ぎ取られ、かわりに飢餓と恐怖、猜疑のなかに置かれている。
はたしてその絶望的な困難に沈んでいる人びとを、わたしたちは救いえるのだろうか。
『少年が来る』を書いた韓江(ハンガン)は、1970年韓国光州生まれの女流作家である。そして9歳のとき光州からソウル転居するのだが、それはちょうど「光州事件」がおこるほんの数ヶ月前のことだったという。
韓江がこの作品を書いたのは彼女が46歳になったときであった。その年齢に達したとき、彼女は光州の風景と彼女の幼なじみや周囲にいた人びとの記憶の断片を、あたかも古い土器の欠片ひとつひとつをつなぎ合わせるかのように、30年の時空を超えて、ひとつの小説として紡ぎだした。
「光州事件」とは、1979年10月、長きにわたって独裁者として君臨していた大統領の朴正煕が、側近に暗殺されるという変事が起きたことに端を発している。朴暗殺後、すぐにその権力の継承に名乗りを上げたのは全斗煥であり、全が主導権を握る「新軍部(ハナフェ)」が、即座に強圧的な軍事独裁体制をしく。そのとき事件はおこった。
朴暗殺後の韓国では、独裁の圧迫からの解放を求めて、民主化運動が高まった。とりわけ韓国全羅南道の光州は、民主化を説く野党政治家金大中の地盤であった。その光州に全斗煥は、強精な空挺団を送りつける。政敵を死刑に追いやり、軍事力で民主化運動を根絶やしにするためであった。それが「光州5・18」と呼ばれる惨劇をもたすことになる。
「光州事件」については、1985年刊行の『光州5月民衆抗争の記録-死を越えて、時代の暗闇を越えて』をはじめ、映画『光州5・18』(2007年)や『タクシー運転手~約束は海を越えて』(2018年)などで、そのおおよそを知ることは出来る。
しかし、この暗黒の暴力に踏みにじられ、その後に心身ともに障礙を負い、PTSD(Posttraumatic Stress Disorder)に苛まれ、何度も自殺未遂をはかる人びとの不条理。そして埋葬すらかなわなかった惨憺たる死者たちの魂は、いくらその事件の全容を知り得たとしても、けっして取り替えしはきかない。地底深く漆黒の闇に垂れ下がる重い錘となっていまに残っている。
そのなかにあって、小説『少年が来る』は、精緻で沈鬱な文体で、あたかも精神の襞に分け入るようにして、深く傷ついた人びとや暴虐のなかで殺害された人びと、精神に痼りを抱えたままの人びと、ときには幽鬼となった人びとを、記憶の底から脈略のない影絵のように描きだす。過激な告発も、噴き出すような批判も、身を地面にたたきつけるような怨嗟もそこにはない。静かに、でありながらひとつひとつの情景を映し出すように、素手で人びとの心を慈しむように物語がなされていく。
思うに、死者や傷ついた人びとに語りかけ、さらにその深い悲しみを共苦として書き記した作者自身の葛藤、懊悩そして苦悩は、はたしていかばかりであったろうか。
小説の「エピローグ」にいたって、生き残った人びとが、それぞれが記憶に刻み込んだ死者たちを想い祈る場面が出てくる。もちろんそれも冷たい雪が、足元に染みこんでくるという逃れがたさをともなってのものだが、であってもそれまで絶望的な物語が、そこではじめて、あたかもロウソクの炎が点るようにして、息をつく。
「文学は餓えた子どものまえで有効か」。これは近代フランスの哲学者の言葉である。
ここにきて文学とは、冷酷な理屈や暴力と対峙し、人間性の回復を祈るものであることに気づかされる。
その意味で、『少年が来る』はまさに鎮魂のための物語であり、暴圧な権力の非人間性を見据えた記録文学でもある。そして、それがゆえに文学の有効さを知らしめる一書となっている。
(R)